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光華商場の歴史と、台北の地形の関係性 後編


前編では光華商場の成り立ちを紹介しましたが、後編では時代と共に変化してゆく光華商場の様子を見ていきましょう。


目次)


<前編>


  • 光華商場の概要(おさらい)

  • 光華橋の誕生

前編の記事は→こちら



<後編>


  • 光華商場の変容1―現在の電気街が出来るまで

  • 光華商場の変容2―光華橋の取り壊し

  • 光華商場の変容3―光華商場の引っ越し

  • まとめ

  • 筆者感想


地図から見る台北の移り変わり


―光華商場の変容1―現在の電気街が出来るまで


光華商場は開業当初、古本や骨董品などの販売が主体でした。しかし、1979年を境に徐々に変わっていきました。

この年、台湾政府はアメリカとの国交断絶を余儀なくされ、戦後駐留していたアメリカ軍が撤退を始めます。

米兵たちは大量の電気機器や部品を台湾に残していきました。それらは当時、中古品を取り扱っていた光華商場へと流れ、近所の台北高専(現在の台北科技大学)の学生たちが買い求めるようになったことで、電気機器ばかりを取り扱うデパートへと変貌していったそうです。


科技大学


1985年頃から、台湾では半導体産業が伸び始め、光華商場の周りにもコンピューターのハードウェアやソフトウェアを販売する店が徐々に増えていきました。

1992年には現在の中華路(西門町周辺)にあった中華商場*が取り壊され、そこに入っていた電子商品関連の専門店が光華商場とその周辺へ移転しました。


かつての骨董品部門は1987年に光華商場の東側に分けられ、その後「建国假日玉市」として現在の建国路のバイパス高架下に移りました。「建国假日玉市」は現在も週末祝日限定で、建国路の高架下にて開催されています。


このように、光華商場とその周辺は現在の電気街へと進化していきました。


中華商場…

当時、台北最大級の規模を誇ったデパート街。アパレルから電子製品、食品まで販売し、「中華商場へ行けば全て揃う」と言われたエリアだったそうです。現在の西門町エリア(中華路沿い)にあり、すぐ横には鉄路もあったそうです。台北駅~萬華駅間(上地図参照)。


―光華商場の変容2―光華陸橋の取り壊し


光華商場の完成から27年後の2000年、再び変化が訪れます。

1983年、都市開発の第一歩として台北の地上を走る鉄路すべてを地下へ移行する計画がスタートしました。

前述の通り、その計画の影響を受け、1983年から89年にかけて中華商場横の線路も廃止、地下化され、1992年には中華商場が取り壊されました。


鉄路廃止図 アメリカ陸軍マップから借用


当然、光華陸橋近くを走っていた現在の市民大道の鉄路も対象になりました。

1996年から1997年にかけ、光華商場のすぐ傍を走っていた鉄路も地下化され、一般道へと変わります(市民大道の上を走る高速道路もほぼ同時期に完成)。

踏切がなくなり、問題となっていた大渋滞が改善されたことで、次第に光華陸橋の必要性が無くなっていきました…


2000年、公務局によって光華陸橋の建築安全検査が実施され、耐震性の問題が発覚します。周辺の交通環境改善の理由も加わり、2005年6月20日、当時の台北市長であった馬英九によって取り壊しが発表されました。

翌年の2006年1月29日、光華陸橋は約30年の歴史に幕を閉じました。


当時の取り壊しの様子を伝えるニュース記事が残っていました。


TVBS 2006年1月29日『年初一拆!光華橋再見了!』


TVBS 2006年1月29日『大年初一 光華橋拆除走入歷史』



―光華商場の変容3―光華商場の引っ越し


光華陸橋の取り壊しとともに、光華商場は新たに生まれ変わるための移転計画が進んでいました。その移転先こそが、光華の現在地です。


新ビル(光華數位商場)の完成までは、新生南路につながる金山北路と市民大道の傍にある敷地約2,800坪に仮移転し、プレハブ施設で営業していました。


光華商場のあった場所


当時の仮移転の様子を伝えるニュース記事


TVBS 2006年1月6日『獨家 光華商場將搬家 激情抗爭不復見』;


TVBS 2006年1月18日『新光華商場開賣 百萬大獎迎賓』;


2年後の2008年7月19日、ついに新生光華商場の「光華數位新天地」がオープンしました。

オープン当日は長蛇の列ができ、オープニングセールも行われていたみたいですね。


オープン時のニュース


TVBS 2008年7月19日『光華商場慶開幕 1元競標搶!』;


―まとめ

  • ~1945年 光華の近く(新生南路)は昔、水路があり、日本統治時代には”堀川通“と呼ばれていた。

  • 1945年 ”堀川通“は、戦後”新生南路“へと名を変え、周辺の交通緩和のために光華陸橋が建設された。

  • 1973年 光華陸橋の高架下に光華數位新天地の前身となる光華商場が誕生する。開業当時は、古本や骨董品などを販売していた。

  • 1979年 米軍撤退により、アメリカ兵が大量に残していった電子機器の中古販売を始めたのをきっかけに、電気街へと進化。

  • 2006年 光華陸橋は再開発の影響を受け、取り壊されてしまう。

  • 2008年 光華陸橋の取り壊し後、光華は現在地へと移転。


光華陸橋下にあった石碑は、今も大切に保管されています。一つはMRT忠孝新生駅構内の壁に、もう一つは台北市政府にある台北探索館(台北ディスカバリーセンター)に保管、展示されています。



MRT忠孝新生 光華橋石碑



MRT忠孝新生駅構内の石碑横では、建設から取り壊しまでの歴史映像も流れています。建設当時の様子を知ることができるので面白いです。MRT忠孝新生駅で下車する際、光華でお買い物の際、は是非見てみてください。



―記事担当 ノマドスタッフKより


ディープな台湾をお伝えするためにフラッと立ち寄った「台北の秋葉原」に、まさかこんな面白い歴史があるとは思いもしませんでした。正確な情報をお伝えするために調べ始めたところ、芋づる式に新事実が発覚し、題材にしたことを少し後悔しました(笑)。

堀川通りのように、当時の鉄路や水路は統治時代の日本が関係しているケースが多くあります。その面影は未だに台北のあちこちで見られます。台湾の人たちの手によって大切に保護されているものから、奇跡的に残っているものまであります。改めて別の記事で、じっくりと紹介できればと思います。



参考:


※画像は全てノマドスタッフが撮影・編集しました



写真で台湾!Instagramにて公開中

▼ノマド 台北女子社員日記

台湾勤務の台日スタッフが、日々の暮らしの中からディープな台湾を発信しています。




#台湾ノマドより #台湾の歴史

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